大川家具の歴史と榎津指物の起こり1
榎津久米之助は安土桃山時代の天正10年[1582年]8月10日、96歳で死去した。その後、家臣達は榎津久米之助の精神を受け継いで、榎津指物を製作して(調度品や家具、収納箱、武将箪笥(たんす)等々)、立派に工商を成していった。
主に使用した木材は、桐の木や杉、檜(ひのき)、もみ、他雑木類であった。
また、天正17年[1589年]天草の志岐一族は、加藤清正によって滅ぼされた志岐城を明け渡し、志岐経長は弟の経弘、他郎党数名を伴い、島原湾、有明海を北上した。
そして筑後川の左岸の大川榎津の願連寺の開祖、故榎津久米之助(僧名ー善明)を頼って、大川の地に移住してきた。
経弘(又兵衛の父)と久米之助は、生前より旧知の仲で、同じ武家ということで昵懇(じっこん)の間柄であった。
志岐経長一族は苦労しながらも、久米之助の家臣達の協力も得ながら、花宗川のほとり(庄分)に定住する事が出来た。
当時の柳川藩主、立花宗茂は志岐一族が持っている高度な造船技術力を活用して、大きな木造船や家屋の建造に取り組み、かたや建具や調度品や武将箪笥、籠等を作らせた。
使用されてた木材は主に桐、杉、檜(ひのき)、竹だった。
この様に海洋族である志岐一族が、榎津の庄分に移り住んだことによって、造船技術力の更なる高度化や屋大工や建具そして榎津指物の発展に繋がっていった。
江戸時代になると、大川は筑後川水運と有明海航路を結ぶ要港として栄えた。
また、江戸時代の大工(基本的には半農半工であった)は、屋大工の傍ら建具も作り、家具調度品や武将物等も作っていた。
その中で腕利きの大工で意欲のある者が、他国の指物師に弟子入りし、その技術を習得して大川に持ち帰り、今までの榎津指物に新しい指物技術を取り入れ、榎津指物を確かなものにしていった。