大川家具の歴史と、榎津指物の起こり2
江戸時代後期になると大川には舟大工100名、榎津指物の流れを汲んだ指物師80名が腕を競って、木造船や、建物、建具、組子、欄間彫刻、そして家具調度品を製作していた。
この頃、田ノ上嘉作が文化9年[1812年]に榎津長町に生まれた。
田ノ上嘉作は職人として修行を積むが、18歳の頃、大阪で指物の細工を学んだ優秀な指物師が久留米にいると聞き、直ぐに弟子入りをした。その技術を学んで大川に持ち帰り、今までの榎津指物に箱物技術を加えて新しい箱物家具を作り始めた。
この技法は子の儀助、更に孫の小平次へと伝承された。これが榎津箱物の始まりと言われている。
さらに、嘉作の死後、もう1人の孫に当たる田ノ上初太郎が家業を継ぎ、16歳で嘉作の名を名乗るまでになった、彼は長崎の唐木指物の細工技やオランダ家具の技法を学び、榎津指物に新しいこれらの技法をとりいれて榎津指物をさらに確かなものにしていった。
小降りの桐たんすも作ったようで、大牟田の『T氏』宅にこの2代目嘉作の桐箪笥が現在も残っている。
又、嘉永6年大川で創作された製作年号入りの桐たんすが、大川市の管理のもと、学術調査を行った後、保存されている。