大川家具の原点 -榎津指物ー
日本で言う「指物(さしもの)」の名の由来については、諸説あるが、ほぞや継ぎ手によって材を組む事を「指(さ)す」といい、又「物指し」を用いる細工をするからとも言われている。
指物(さしもの)の技術者を指物師(さしものし)と呼ぶ。
日本の木工の中の指物は、平安時代の宮廷文化が花開いた京都が発祥の地と言われている。以来、職人達がこの技法を学ぶために全国から集まり、習得した技術を各地に広めてきた。
室町時代[1336年~1573年]に起こった京指物は宮廷内で使用する為に、優雅で上品な外観重視の造りになっていった。板厚も出来るだけ薄くして、宮廷好みの、品の良い仕上がりが京指物の原点。
これに対して江戸指物[1650~]は徳川幕府が江戸中心に文化の発展を図った事で始まった。造りも堅固で粋な江戸気質を表現した製品であった。
大川の榎津指物は[1536年]室町時代後期に榎津久米之助によって始められたと記載されている。
室町時代後期の戦国時代、室町幕府十二代将軍、足利義晴の家臣、榎津遠江守の弟として、1486年に生まれた榎津久米之助。
大川市榎津本町の願連寺に今も残る古文書によると、彼は兄の戦死後、天文4年[1535年]に出家。翌年天文5年[1536年]に49才で大川(筑後国)へ家臣と共にやって来て、一寺を健立し、「願連寺」と名付けた。
その頃の大川は有明海から筑後川の干満の差を利用した、木造船の往来が容易であった為に、大川の港は繁栄し多くの物資の集積地となり、海上輸送が盛んに行われていた。木造船の製作には多くの熟練した舟大工がおり、その技術を継承していた。
その材料は、筑後川を利用して川上の山林から筏を組んで、大川迄流して運搬しており、川下の大川は豊富な木材の集積地であり、港が栄える事で大川は筑後平野の物資の集積地でもあった。
榎津久米之助は、家臣や弟子達の生活の為に、この地の豊かな木材と高度な技術を持つ舟大工達の技を学ばせ、指物(家具)を作らせた。これが『榎津指物』の起こりとされている。